その三 ご出家

七才から十五才まで真魚君はお生まれになった讃岐国(さぬきのくに)で勉強をされていましたが、学問好きであつた真魚君のすぐれた才能を見込んだ伯父(おじ)の阿刀大足(あとのおおたり)は、都へ行って勉強することをすすめられました。
十五才の時のこと。真魚君は伯父に連れられて都にのぼることになりました。都での真魚君の勉強振りは目を見張るものがあり、阿刀大足について勉強に励まれ、十八才のときに大学に入られたのです。この大学は、貴族の子弟のための学校で、ここでは儒教を主として中国の毛詩(もうし)・左伝(さでん)・尚書(しょうしょ)などを教えていました。
これらの学問はすべて立身出世のために勉強するもので、世のためになり人々を救うためのものではなかったのです。これに気付いた真魚君は、大学を去り、出家して仏門に入る決心をしたのでした。
当時、僧侶となるためには国の試験があり、人日度がかつてに僧侶になることは厳しく禁止されていました。真魚君は、国の保護をうけて勉強のできる国家後任の僧侶になる道を進まず、大学を中退して国禁(こっきん)をおかして山野に分け入って苦行練行する修行僧の生活を選んだのです。
当然、一族の人々は猛反対しました。
「立身出世こそが親孝行の第一である。出家して髪を切ることは、親を捨てて、親からもらったものを粗末にすることになり、もっとも親不孝なことだ」
「正式に僧侶にならず、乞食のように山に入って修行するなどはもってのほかだ」
などと散々言われたのです。
しかし、真魚君はくじけませんでした。本当の親孝行は、仏教の修行によって悟りを開き、両親の人間としての悩み、苦しみを救うことであると確信しておられたのです。しかも、救われるのは両親だけではありません。多くの人々がこの悟りによって救われるのです。真魚君の決意は変りませんでした。


真魚君はこの固い決意を「三教指帰(さんごうしいき)」という書物に書かれたのです。「三教」とは儒教・道教・仏教のことで、この三つの尊い教えのうち、まことに人間を救い、世に幸福をもたらすものは仏教であることを述べて、自分が出家した理由を明らかにしておられるのです。これは、真魚君が二十四才の時のことでした。
この書は、現在も高野山の国宝として残されており、そのすぐれた文章には力強さと雄大さがあり、若き日のお大師さまのあるがままの姿を伝えています。
都を去った真魚君は奈良の春日山にあった岩渕寺(いわぶちじ)の名僧・勤操大徳(ごんぞうだいとく)を訪ねて遂に出家されたのでした。

写真上 長岡京跡
写真下 三教指帰

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